諸塚方式自治公民館活動の沿革

諸塚村は、戦前から社会教育が盛んな村で、各集落に青年会や壮年部会等の組織があって、自学自習の共用団体としての活動を続けながらも、同時に産業文化活動にも力を入れる、地域振興の中心的組織が機能していて、その内容は内外から高く評価されていました。
しかし、敗戦後、GHQの戦後統治のもと、戦前からの自治組織はすべて軍国主義下のものであるとして、全国の集落の自治組織は解体されました。諸塚村も例外ではなく、長い歴史を刻んだ自治組織は失われました。しかし、それを契機に戦後民主主義の施策に沿った自治組織を再構築しようという、小さな山村の暗中模索が始まったのです。 昭和21年、新しい文部省から「今後の社会教育は公民館活動によらなければならない」という通達と構想が発表されました。村では、これを機に直ちに公民館建設に着手し、早くも昭和21年11月には、諸塚村公民館が完成し、文部省の方針に従った「公民館活動」を試みました。しかし、それは村中央公民館の大きな施設を通して、中心部で行われる人間教育の色彩が強くあって、交通不便な山間の点在集落の多い小さな諸塚村では、各集落への浸透がなかなかできず、予期した効果実績をみることはできませんでした。

当時の村民は、熟慮の末に、「公民館活動」を中央施設中心から、地域の集落組織を中心とした活動へ大きく方針転換しました。具体的には、以前から各集落に古い歴史をもって発達してきた民主団体(壮年会、婦人会、青年団)を、壮年部会、婦人部会、青年部会と改称し、実践組織と位置付けて、これらの団体に対して社会教育を行う体制をつくりました。ところが、当時はアメリカの占領下で、戦前の組織を復活させた諸塚村の自治組織の案は当然の如く、GHQから許可されないだろうと、文部省からは却下されました。そこで今後は、各公民館組織の元に各部会を結成させるものとして、再度申し入れをした結果、直接GHQに交渉する機会が与えられ、昭和23年12月にようやく許可が下り、諸塚方式自治公民館制度が設立されまたのです。

一方で、諸塚村には戦前から各集落には集会場となる「公会堂」がありましたので、自治公民館組織の充実のために、この施設の改築を進め、昭和25年までには村内全地域(当時15ヵ所)に公民館を完成させました。この公民館施設を活動の拠点にして、自主的に、壮年、婦人、青年部会等が結成され、さらに村中央公民館組織が連合協議体的な性格を持って、村全域に総合的な社会教育活動を進めていきました。その結果、生活改善や産業の振興、保健体育等に着々と実績があがって、昭和26年11月には、準優良公民館として文部省の表彰を受けるまでになりました。

また、諸塚村では、昭和22年4月に成人式を実施しています。戦前実施されていた徴兵制度が廃止され、満20歳になる青年に、成人としての自覚が失われつつ現状を憂えた村内有志が発案したもので、当時の藤井長次郎村長がこれを実施したものです。若者が成人者としての自覚を認識し、郷土復興の意識を高めようと、有名人の講師による講演や研修を10日間行い、最後に証書を授与していました。これは全国に先駆けた成人行事として注目されました。国が1月15日を成人の日として制定したのはそれから2年後です。

諸塚村の成人式

諸塚村は、立地条件に恵まれない険しい山々に囲まれた村です。産業施策の基盤を、木材、椎茸、茶、牛の4本本柱として相互に関連付けながら、各自農家に見合った規模の家族労働的複合経営を指導してきました。諸塚方式公民館活動も、このような施策を、行政と密接な連携をとりながら進めてきました。共通の目的達成のために、公民館という組織を通じて、住民が一体となった村おこし運動を可能にしたのです。諸塚村の社会教育は、自治公民館活動とイコールでもあって、生涯学習の観点からも公民館を総合的に位置付け、住民総参加の活動を推進してきたわけです。

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