諸塚の歴史・文化~諸塚神楽~

諸塚神楽の歴史的背景とその特徴について

神楽の語源は、「神座(かみくら)」から転じた説が一般的ですが、神楽の記述の最古は、高千穂神社の「十社大明神記」(1189)で、そのころの高千穂地方(現在の西臼杵郡および諸塚村、蘇陽町の一部)には、すでに存在していたようです。

神楽は、もともと社寺が保持し、修験者たちが担っていましたが、幕末から明治初期にかけて、時代の変化と共に社寺の影響力の衰退と修験道の廃止とともに民間に流布し、住民主体に変化していったものと考えられます。

庶民に普及するにつれ、本来の宗教的修験道的な色合いが薄れ、庶民の文化を支える農林漁業と密接に関連するようになります。分類すると、その地域の文化によって山岳神楽と農耕神楽、漁師神楽とに大きく特徴づけられます。また冬の夜神楽の形態は、春の昼神楽と違って宮崎県では県北部の山間部にしかありません。

高千穂地方とは、もともとは阿蘇山と祖母山までの中間の区域のことで、江戸末期には現在の諸塚村を含む高千穂、日之影、五ヶ瀬の4町村にあった旧18か村のことを言ったようです。これらの地域は、その神社が鎌倉期に熊野神社に寄進されたこともあって、地域信仰に熊野信仰が色濃く反映され、諸塚山や二上山では山岳修験者信仰が盛んに行なわれたようです。その過程で神楽が伝承され、県北部に限定して夜神楽が伝わっているものとされています。先ほども記述した最も古い神楽の記録があることからも、それが証明されます。

特に高千穂神楽の特徴のひとつは、仏教や修験道の影響を排し、天孫降臨の記紀神話を強く出しているところです。吉田神道の影響を受けた神道化が顕著で、岩戸を中心にしたいわゆる「出雲流」です。椎葉神楽が、神道化の影響が薄く、狩猟文化の影響を色濃く残しているのと対照的です。

諸塚神楽は、同じ高千穂地方の中でも異色で、その大きな特徴は他に類のない200体を越す神楽面が残っていることです。神楽のはじめに行う「舞入れ」では、神面が一同に並んで道神楽が舞われますが、他の神楽では見られない圧倒的に壮観な舞です。これは、明らかに修験道神楽のなごりです。

一部神道化も見られますが、この原始神楽の原形を残す多くの面と壮観な舞い入れが諸塚神楽の大きな特徴です。

国選択無形民俗文化財(平成5年11月26日指定)

宮崎県重要無形民俗文化財(平成3年11月1日指定)

戸下神楽

この神楽は、南川神楽と同じ系統の神楽ですが、現在は公民館に神高屋を前日に建てて舞われます。この神楽は、普通神楽三十三番を奉納するのですが十年くらいに一度の大神楽では神楽三十三番がさらに細かく分かれ、神楽五十一番という大がかりなものとなっています。特に大神楽の最初に舞われる「山守」は、日本でただひとつ戸下神楽にしか残っていないそうです。

神楽が舞えるように山の神を神主が説得する話です。山の神は、かずらをまいてほんとに山から下りてきます。そして長い説得の台詞がありますが、山の神はすぐには納得せず、説得して次の番に移るには何時間かかるか解らない重要な番です。この山守を観るために、全国から多くの観客と結構な数のカメラマンが現れます。

戸下神楽の山守

南川夜神楽

 

この神楽は、今でも民家持廻りで毎年実施されます。その民家の庭には神高屋(みこや)が設けられ、四方の柱には椎の木、屋根は、青竹でつくります。 そこで二十余りの神面をかぶり行列で舞いながら神高屋に舞い込み、八百万神々を迎え、夜を徹して舞われます。

この神楽は、荒神が特徴です。荒神は昔からの地神様で、「七荒神八稲荷」といわれています。特に「三宝荒神」は、山守のように、それぞれに神主と問答をします。神主は、無断で神楽を始めたことを詫びつつ、荒神様を説得しますが、荒神は、怒りを露わにして抵抗し、周囲の観客もそれに賛同し、囃し立てます。諸塚神楽の「荒神問答」は、地神様と人間というより、伝統文化と新しい文明の衝突と融合といえるかもしれません。

また、この集落は、5つの集落のひとつで毎年順繰りで開催しますが、舞手となるほしゃこ(奉仕者)が多く、賑わいます。

 

南川神楽の三荒神

桂神楽

桂神楽の由来源については、江戸末期に神官宅の火災で、その記録を全て消失しているため口伝えとそれを筆写したわずかな記録しか残っていませんので不明な点が多いのですが、ほかの諸塚神楽とは趣を異にしていて、むしろ椎葉村の利根川神社、高千穂町黒仁田の神楽と同じ系統といわれます。

ゆっくりとしたリズムの勇壮な舞が特徴です。

桂神楽

 

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諸塚村 教育委員会
〒883-1301
宮崎県東臼杵郡諸塚村大字家代2683番地
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